創作夢

□空想ノスタルジア
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 六年前から行方不明になっていた弟の真尋(まひろ)が、家に帰って来た。
 無事を願って悲しみに暮れる日々は終わったけれど、離れ離れの長い年月が真尋を変えた。泣きながら真尋に駆け寄った私達家族に向けられた第一声は「誰ですか?」だった。


 早めに仕事を切り上げて帰宅したお父さんにお母さん、私、弟。家族四人揃っての夕食は子供の頃の誕生日会みたいに豪勢だ。テーブルには真尋の好物が所狭しと並び、六年間空席だった私の隣の椅子には主役ともいえる真尋が座っている。
 真尋が帰って来てから、一ヶ月。真尋が居る。それだけで毎日が特別な記念日のように思えるけど、一家団欒には程遠かった。

「ど、土日はみんなでおばあちゃんとおじいちゃんの家にお泊りに行きましょうね」
「ああ。二人共真尋にすごく会いたがってるぞ〜。お小遣をいっぱいもらえるかもしれないな〜!」
「そうね!よかったわねぇ」

 あぁ、息が詰まる。お喋りなお母さんの不自然に上擦った声に、普段は寡黙なお父さんの無理矢理な明るい話し方。テーブルの中央に並べられた大皿には手を付けず個別に取り分けてあるお皿のおかずだけ黙々と食べる真尋……それら全てが気まずい。
 早くこの場から解放されたくても、全員が食べ終わるまでは席を立たないのが我が家のルールだ。最初に食べ終わって手持ち無沙汰になってしまわないように、でも一番最後にはならないように、私は三人のお茶碗の減り具合をこっそり確認しながら箸を進めた。

「黙っちゃってどうした天音〜?お腹でも痛いのか?トイレに行っといれ〜ってな!」
「さ、寒っ!お父さんセンスなさすぎ」

 無言の私を会話に混ぜようと普段なら絶対有り得ないオヤジギャグまで言うお父さんが少し泣ける。私は肩を抱いて大袈裟に震え、寒がる振りをした。頑張っているお父さんとお母さんのためにも明るく和やかな空気感を作らないと。

「そうそう、真尋も明日から学校だね!」
「…………」

 当たり障りのない話をすることは簡単なようでとても難しい。真尋も会話に入りやすいだろうと思って私が選んだ話題は多分良くなかったんだと思う。無表情の真尋が、持っていた箸を静かに置いた。

「そうね。真尋ならすぐに友達が出来るわ」
「同じ高校にお姉ちゃんがいるから安心だな!何か困ったことがあったら、いつでもどこでもお姉ちゃんを呼びつけてやれよ〜!」

 お父さんとお母さんは真尋の変化に気付かない。不安になって様子を窺っていると、真尋は少し眉をしかめ、また無表情に戻ってから立ち上がった。

「ごちそうさま」
「さ、さてはトイレに行きたくなったな〜?」
「ま、真尋……もうお腹いっぱい?ほら、真尋の一番の好物がまだたくさん残ってるよ?」

 まだ半分もご飯は減っていないのだから、真尋の機嫌を損ねてしまったことは明らかで。お母さんは藁にも縋るような思いなのか、ピザの乗ったお皿を怖ず怖ずと差し出した。真尋はそのお皿を一瞥し、すぐに視線を逸らす。そのまま無言でダイニングを出て行こうとする真尋を引き止めようと、お母さんも立ち上がった。

「待って真尋!」
「そうだよ真尋。家族みんなでもう少し話をしないか?」

 お母さんとお父さんは祈るように真尋を見る。真尋はダイニングのドアノブに手を掛けたまま立ち止まった。
 私も真尋が隣に戻ってきてほしい。私達家族の元に帰ってきてほしい。それに何よりも、悩んでばかりのお父さんとお母さんが報われてほしかった。

「……そこに僕の好きな物は一つもないよ」

 振り返った真尋はテーブルの上に並ぶ料理をもう一度見ると、そっけなく言って出て行った。ドアの閉まる小さな音が空しく響く。お母さんと一緒に腕によりをかけて作った料理が全否定されて、我が家のルールも守らずに真尋は席を立ってしまった。悲しいけれど、神経がすり減るような緊張感から解放されて少しホッとしていた。

「ハァ……昔と同じ感覚でメニューを考えたら駄目ね」
「学校の話も駄目だったのか?」
「ごめん」

 食事を再開しながら恒例となった反省会が始まった。真尋が帰って来て一ヶ月、私達はこんなことを繰り返している。

「天音は悪くないわ。もちろん真尋もね。悪いのは全て、全て…っ」
「おい。子供の前でやめなさい」
「あ……ごめんなさいね」

 お母さんがここにはいない相手への憎しみで顔を歪ませ、拳を強く握った。お父さんに諭されるとすぐに我に返り「駄目なお母さんね」と、困ったように私に笑いかけた。

 真尋を誘拐した犯人夫妻に憎しみを抱くのは当然のことだ。お母さんだけじゃない。お父さんも私も、あの人達のことを一生許さないだろう。
 十歳で誘拐された子供が家族のことを一切覚えていないなんて、通常の精神状態なら有り得ない話だ。犯人夫妻は何らかの方法で自分達が親だと真尋を洗脳し、私達本当の家族の存在を記憶から消し去ったのだ。一ヶ月が経った今も、その洗脳は解けていなかった。

「でもさ、わざわざ私と同じ高校に転入させなくてもよかったんじゃない?前の学校もここから通えない距離じゃないし……いきなり友達と引き離すのは可哀相だよ」

 明日の学校の話で不機嫌になったのは、学校を移ることに納得してないからだと思う。真尋は固く心を閉ざしていて自分の気持ちを語ろうとしないけど、本当は不満だらけのはずだ。

「なに言ってるのよ。天音だって真尋に思い出してほしいでしょう?最初は辛い思いをさせてしまうかもしれないけど、カウンセリングを受けながら私達家族と一緒に生活をしていけば洗脳は徐々に解けていくわ。誘拐されていた頃の環境に中途半端に身を置かせることは、真尋を混乱させて余計に苦しめるだけなの」
「そう……なのかもね」

 お母さんが少し怖い顔をして私を見た。お母さんの言うことも理解出来る。出来る……けれど、私は曖昧に頷いた。

 真尋にとって誘拐されていた六年間の生活は何不自由ないものだったらしい。最初の四年はアメリカで、日系人も多い綺麗な街に住んでいたそうだ。中学三年生で日本に帰国してからは普通に中学高校と通っていた。自分を誘拐した夫妻のことを実の親だと思い込み、それを少しも疑わず、毎日平穏に暮らしていたのだ。
 しかしある日突然、あなたの本当の家族ですと主張する見知らぬ人達が現れ、親や友達から強引に引き離されたことになる。これではまるで、私達の方が誘拐犯みたい。
 六年間私達がどれだけ真尋を思い、無事に帰って来てほしいと願っていたとしても真尋の立場から見ればこれが全てだ。

「学校で真尋を気にかけてあげてね。授業が終わったら真っ直ぐ家に帰るのよ」
「はいはい。バイトもやめることになったわけだしね」
「天音、真尋のためだろ。我慢しなさい」
「わかってるよ。わかってるけどさ……」

 私がぼやくとなんだか気まずい雰囲気になって、それからは誰も口を開かなかった。気を遣って無理に話す必要なんてない。どうせ次に顔を合わせた時にはケロッとした顔で普通に話せるって、みんなわかってる。家族ってそういうものだから。


 真尋の転入初日は朝から生憎の雨だった。お母さんが気合いを入れてアイロンがけした新品の制服は、学校に着く頃には雨で濡れてよれよれになっていた。

「あー…びしょ濡れだよ。中の教科書まで濡れてたら最悪だよね」

 昇降口は雨独特の嫌な臭いが鼻につく。一応真尋に話し掛けているつもりだが返事は期待出来ないからもう独り言感覚だ。
 私は真尋にもタオルを渡して、自分の髪や鞄を拭き始めた。

「スクバは濡れないように気を付けなきゃ」
「だよねー…っ!?」
「もっと傘の内側に入れた方がいいと思うよ」

 極普通に会話するかのような返事が返ってきて、驚いて真尋を見る。六年の間に声変わりを終えた真尋の低い声はまだ耳に馴染まない。でも確かに真尋の喉から出ている声で、真尋の唇が言葉を紡ぐ。

「あ、そっか。私のと違ってあんまり濡れてないね」
「うん。守ってたから」
「そっか。私のスクバなんか搾れそうだよ」
「それは無理だと思う」
「そ、そっか。そうだよね。でも教科書濡れてたらどうしよう」

 動揺し過ぎて似たような言葉しか出て来ない。でも、すごい。ぎこちないなりに会話が成立している。真尋が帰って来てからこんなに話が続いたのは初めてのことだ。真尋は話しながらタオルを持った手を下ろした。

「もう少し髪拭いた方がいいんじゃない?」
「もう十分だよ」

 真尋の髪は、歩いたら水がポタポタ落ちそうなくらいまだ濡れている。大雑把な髪の拭き方は昔と変わってないんだな。

「駄目だよ。風邪引いちゃうでしょ!タオル貸して?」
「……うん」

 真尋は一瞬驚いた顔をしてから素直にタオルを渡してきた。私より背の高い真尋の髪を背伸びしながら拭いていく。
 この感じ、懐かしい。私はいつもお母さんの真似をして一歳年下の真尋の世話を焼いていた。真尋はそんなこと少しも覚えていないんだろうな。目を閉じ、大袈裟に両耳を指で押さえてじっとしている、その仕草が私の弟と同じだってことにも気付かないんだね。

 真尋を職員室の前に連れて来ると、私はお姉さんぶってアドバイスした。

「自己紹介で一発芸はどうあがいても滑るよ。無難が一番いいからね。ファイトだよ」
「一発芸なんてする気ないよ」
「それならいいけど……」

 転入生の真尋より私の方がそわそわして落ち着きがない。特殊な事情で転入してきた真尋はクラスで腫れ物扱いされないだろうか。
 私は真尋のことを学校でペラペラ話したりしてないけど、近所の噂だか何だかで知った同級生数人に「弟さんが見付かってよかったね」と声を掛けられた。一年生にも既に噂が流れているか、そうでなくてもこれから広まっていくのは間違いない。

 もう一つ気掛かりなのは、真尋が携帯を持っていないことだった。前に使っていたという携帯は解約の上、没収されている。
 前の家で生活していたときの知り合いと連絡を取らせたくないからと、我が家の電話機とパソコンまでどこかへ片付けられ、しばらく真尋は新しい携帯も持たせてもらえない。しばらくと言っても洗脳が解けるまでずっとこの状況が続くのだろう。
 今どき連絡ツールが手紙だけの高校生なんて真尋以外いない。こんな状態で友達が出来るのか心配だ。クラスに上手いこと馴染めるといいな……。

「私行くね。放課後は教室で待っててね。迎えに行くから」
「うん。でも……早く来てね。待つのは嫌いなんだ」
「わ、わかった」

 真尋に手を振ると、自分の教室に向かって早足で歩き出した。
 あぁ、びっくりした。そっけない態度の真尋が急に可愛らしいことを言うから、ほんの一瞬ドキッとしてしまった。単に待つのが嫌だっていうだけの理由か。それもそうだよね。真尋はもう、甘えん坊で寂しがり屋の真尋じゃないんだから。


 私のクラスの担任はとにかく話が長い。「礼」の挨拶を合図に教室を飛び出して真尋のクラスへ走った。お母さんに真尋の様子を休み時間に見に行くよう言われていたものの、私は行かなかった。真尋の同級生に不審に思われる行動は取らない方がいい。
 私のクラス以外はとっくにホームルームを終えていたようで、教室の横を通る際に覗くとどこも雑談中の生徒がちらほら残っているだけだ。一年生の廊下も人が少なくて静かで、真尋のクラスに残っていたのは真尋一人だけだった。真尋は頬杖をついて退屈そうに校庭を眺めていた。

「真尋お待たせ!遅くなってごめんね。初日の手応えはどう?」

 話しながら教室に入ると、真尋が視線だけこちらに向けた。無表情で私をじっと見るだけで返事は返ってこない。返事がないのが返事ってやつだ。朝の会話で少しは打ち解けられたと思ったのに上手くいかないな。

「じゃー帰ろっか」
「帰る?どこに?」
「え……う、家に……」

 頬杖をついたままの真尋は遠くの他人を眺めるように、見えない線を引いて私を観察している。その質問の意味を深く考えてしまって口ごもった。

「……わ、私達に誘拐されたって思ってる…?」
「どうしてそんなこと聞くの」
「……私が真尋の立場だったらそう思ったのかなって……」

 私の視界は涙で滲んで、声は震えていた。そうだろうなと頭の中ではずっと思っていたこと。でも実際に口に出したら、それはあまりに悲しく思えた。

「で、でもね、真尋は洗脳されてる状態なんだよ。本当の真尋は私の弟で、お父さんとお母さんの子供なの。だからこれから帰る家が真尋のお家。生まれてから十歳まで、真尋もあの家で暮らしてたんだよ」

 さっき自分自身が言ってしまったことを否定したかったから必死になって訴えた。

「僕は洗脳されてない」
「違う!洗脳されてる本人は自分が洗脳されてるって気付かないんだよ。だから真尋は」
「その名前で呼ばないで。僕の名前は真尋じゃない」

 真尋は少しも動じていない。真尋はしっかりとした自分の意思を持っていて、私の言葉程度ではそれは少しも揺らがない。そう思えるくらい、私の目を真っ直ぐ見つめて冷静に言うのだ。

「いい加減にしてよ!真尋がいつまでもそんな態度でいるから、お父さんもお母さんも参ってるの。お父さんは仕事でミス続きだし、お母さんはここのところ眠れてないんだよ。私だって真尋のためにバイトやめさせられたんだからね。真尋からももう少し私達に歩み寄ってくれてもいいでしょ!」

 私は溢れそうになる涙を堪えた。頭の中がぐしゃぐしゃだ。涙の代わりに、今まで真尋に抱いていた不満が一気に溢れ出した。
 真尋が悪いわけじゃない。そんなことわかっていたけれど。
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