Keep a secret

□甘くて、苦い
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 無理をさせたから疲れたんだろう。綾瀬さんはそのまま眠ってしまった。
 静かな寝息を立てている綾瀬さんのまぶたは腫れていて痛々しい。拘束を解くとベルトで擦れた手首が赤くなっていた。
 何よりも自分の行いを痛感するのは太ももを伝う鮮血だった。
 俺が綾瀬さんの純潔を奪った証――

「綺麗……」

 その赤があまりにも神々しくて見とれてしまう。罪悪感なんて一瞬で消え失せていた。
 思わずごくりと大きく唾を飲み込む。
 気が付いたら俺はその真っ赤な血を大切に大切に指ですくい取って、口に含んでいた。
 甘くて、苦い……甘美で官能的な味だ。

「綾瀬さんは俺のものだよ」

 次は痛い思いをさせずに快楽だけを与えてあげるから。眠る彼女にそっと耳打ちした。


 綾瀬さんのことを好きになってから彼女のことをずっと見てきた。
 俺の知らない綾瀬さんがいるのが嫌だったんだ。

 綾瀬さんは丁寧な言葉遣いの男が好みらしい。けど俺は結構口が悪い。
 体育会系より優等生タイプに優しく勉強を教えてもらいたいらしい。けど俺は根っこが不真面目で勉強に対して真剣に取り組んでいるわけでもない。
 男の部屋は清潔が大前提でインテリアはモノトーンで揃えていてほしいらしい。けど俺は部屋の片付けが苦手で気を緩めるとすぐに散らかしてしまう。
 味覚が合って一緒にカフェ巡りをしてくれる男がいいらしい。けど俺は甘い物は嫌いだし、焼きそばパンも特別好きじゃない。

 そう、俺は綾瀬さんの理想にはほど遠いが、綾瀬さんに好かれるためなら理想の男になってみせるんだ。
 世界で一番綾瀬さんを好きなのは俺だと確信している。
 こればかりは絶対不変な事実だ。地球が丸いとか、人はいつか死ぬとか、そんな当たり前と同じくらい揺らがないものだ。

 だって俺は他のどの男よりも綾瀬さんのことを知っている。

 朝が苦手で予鈴三分前到着を目安に家を出ること。夜更かしは肌に悪いと気にしつつも一時過ぎまで起きてること。昼休みはほぼ毎日購買に焼きそばパンを買いに行くこと。苦手科目は数学と英語と体育で得意科目は特にないこと。甘い物全般が好きで苦い物は嫌いなこと。野菜は基本的に苦手だけどトマトだけは好きなこと。花の中では向日葵が一番好きなこと。口癖はお腹空いたー、どうしよう、わかんない、なこと。日用品は近所の薬局のポイント十倍デーに母親と買いに行くこと。エッチなTL小説をファッション雑誌で隠しながら買ったこと。店員が袋に入れるまでの間に八回も後ろを確認したこと。本屋を出る時には小さくガッツポーズをとって安心してたけど俺が実は見てたことに気付いてないこと。体重自称四十キロだけど自称でしかないこと。正しい体重は……秘密にしておこう。私ダイエット中ーとか言いながら本当はそんなに気にしてないこと。ジャンケンでチョキを出さない癖があること。電車の吊り革や手すりが何となく嫌で触りたがらないこと。老人に席を代わろうとしない若者に一言言いたいけど勇気が出ないこと。でもその老人に荷物を持ちますと声をかけること。お母さんに時々マッサージしてあげてること。洗濯担当は綾瀬さんなこと。誰かの相談に乗ってると綾瀬さんの方が号泣しちゃうこと。友達の誕生日には必ずプレゼントを渡してお祝いすること。

 挙げればきりがない。俺の頭の中には綾瀬さんのことしかなかった。
 好きすぎてこれ以上好きになることはあり得ないと思うくらい俺の全てをかけて好きなのに……それでも綾瀬さんへの思いは限界を知らなくて、知れば知るほどもっとずっと好きになっていく。

 いつの間にか俺は狂ってしまったのかもしれない。頭がおかしいと言われたとしても今はそれでいいんだ。
 俺の思いが届いたらきっとこの狂った恋は純愛になる。





「……ん……?」
「目が覚めましたか?」
「ここは……」
「僕の部屋のベッドです。喉乾いてますよね?」

 綾瀬さんがぼんやりと俺を見つめながら静かに頷いた。

「水を持ってきます。服は枕元に置いてあるので着ておいてくださいね」

 自分が服を着ていないことに気が付いたんだろう。綾瀬さんの表情が少し曇る。
 眠っている時に体を触られるのは嫌かなと思ったから俺の手で服を着せるのはやめておいたのだ。
 今更そんな配慮をしたところで、だが。

「綾瀬さん、入ってもいいですか?」
「……うん」

 返ってきた低い声音から怒っていることが読み取れた。扉を開けると綾瀬さんは服を着てベッドの端に座っていた。

「水です。飲んでください」
「私に何か言うことないの?」

 グラスを受け取った綾瀬さんはできる限りの怖い顔で俺を睨んでいるが、俺の視線は彼女の手に向く。下腹部を押さえているけれど、痛いのかな。

「体は大丈夫ですか?」

 俺は自然と微笑みを浮かべる。

「……それだけ?」
「はい」

 綾瀬さんが求めている言葉を理解していたけど、全く思ってもない言葉を伝えるのは逆に失礼な気がした。

「っ、最っ低!」
「っ!」

 グラスの中の冷たい水を顔面で受ける。

「どうして謝まらないの?」

 水滴がぽたぽたと髪から滴り落ちる。
 謝れと言われても俺は悪いことをしたと思っていないんだ。

「……ハーブティーをかけてしまったこと反省しています。ごめんなさい。あんなことをするつもりはなかったんです」
「はあ? 違うでしょ!」

 綾瀬さんに飲んでほしくて用意したのに。あの時の俺は馬鹿だったな。

「謝って、それで写真を……」
「謝らないし、消さないよ。僕達にとって必要なことだったんです。綾瀬さんもいつか必ず理解してくれます」
「……も、もういい。私帰る」
「待って」

 信じられないという顔でしばらく俺を見つめた後、諦めたように部屋から出て行こうとする綾瀬さんの腕を掴む。

「い、嫌……離してよ!」

 恐怖が蘇ったのかすっかり震えてしまっている綾瀬さんが可愛くて仕方ない。できるなら今すぐにでも犯してやりたかった。
 俺はいつからこんなに非道な人間になってしまったんだろう。

「明日デートしましょう?」
「デート?」
「学校に課題を提出しに行くんですよね? 俺も着いていくので帰りにどこか行きましょうよ」

 俺なりに爽やかに誘ってみたつもりだけど上手くいかない。綾瀬さんは露骨に嫌な顔をしていた。
 でも、そんな顔も可愛い。綾瀬さんってどうしてこういちいち可愛いんだろう。ちょっと困るな。

「……帰る」

 まだ返事をもらえていないけど、誘いを断れないことはわかっているから手を離す。
 ああ……それともう一つ、用事がある。

「綾瀬さん、お菓子持って帰りませんか?」
「お菓子? 毒でも入ってるんでしょ。いらないよ!」

 綾瀬さんはそのままドアを叩き付けるように閉めて出て行った。

 酷い言われようだ。俺がいくら最低な人間だからって毒は入れないだろう。
 綾瀬さんがいなくなってしまうことなんかするはずがない。
 髪から落ちてくる水滴が服に染み込んで体が震える。少し冷えてしまったな。

 リビングに戻ってスマホを見ると黒崎さんから八回も着信が入っていた。
 かけ直さなくてもいいか。秘密はもう綾瀬さんに知られてしまっている。
 あの女に従う理由もなくなったわけだ。

 それより綾瀬さんに送るメッセージの文面だが……綾瀬さんは絵文字や顔文字を使う男は少し引くらしい。
 俺も元々絵文字は使わないから安心だ。

『こんばんは。明日は午前十時に前と同じ場所で集合にしましょう』

 俺からしたら心が弾むデートの誘いだけど、綾瀬さんがこのメッセージを見たら顔が引き攣るだろうな。
 悪びれもなく最低! 時谷くんなんか大嫌い! と言うのかもしれない。
 そんな綾瀬さんを想像したら思わず笑ってしまう。その顔を見られないのが残念だが明日会えるんだから我慢しよう。

 学校が休みの日に綾瀬さんと会えるなんて奇跡みたいなことだ。
 一年生の頃はとても考えられなかった。

 せっかく楽しい気分だったがテーブルの上のマカロンの箱が目についてため息が出る。
 綾瀬さんが持って帰ってくれなかったから捨てること確定か。
 これ……美味しいのかな……?

「うわ……」

 一口かじれば甘ったるい砂糖の味が口の中に残る。やっぱり甘い物って好きじゃない。
 また綾瀬さんが作ってくれたケーキを食べたいな。
 綾瀬さんだけが唯一俺を幸せな気持ちにさせてくれる存在だ。
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