創作夢
□恋心は目に見えない
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「暑いー…」
私はお風呂から上がって早々に部屋の窓を開けると、ベッドへ倒れ込んだ。いろいろ考え事をしていたら長湯し過ぎてのぼせてしまった。軽く拭いただけの髪がシーツを濡らしていくのがわかったけど、頭がクラクラしてそれどころではない。
今日は驚くことが多かったな。ロッカーを開けたときは心臓が止まるかと思った。中に千尋がいるなんて予想外にも程がある。怯えたように泣いていたのもショックだった。ロッカーに隠れていた理由は恐らく、私と顔を合わせるのが怖かったからなんだろう。
あんな形で見付かれば伊波は千尋に良い印象を持たないと思ったから、私は咄嗟に伊波にはバレないようにごまかした。教室を出ようと変に急かしてしまったし、不自然に思われてないといいんだけど。
私は仰向けに寝転んで、ほぼ毎日眺めている写真を頭上にかざした。この中学一年生の学級写真が、私が持っている千尋の写真の中では一番新しい物だ。
千尋と伊波はこの頃も出席番号が一番と二番だったから隣同士に座っている。千尋と伊波、それに私も今よりすごく幼い。千尋は硬い表情をしていて、伊波は歯を出して笑っている。対象的な二人だ。
まさか千尋と同じ高校に通うことになるなんて思わなかったな。入学式で千尋の姿を見掛けたときは、こんな偶然あるのかと正直すごく戸惑った。千尋は私なんか比じゃないくらい動揺しただろうな。
学校に登校しているのに授業を受けていないのは私が原因としか思えない。私が教室にいる限り、千尋は授業を受けられないのだとしたら、私はどうしたら……。
考えているうちに眠くなってきて、そのまま睡魔に逆らうことなく目を閉じた。
アラームの音で起きた私は、思い切り体を伸ばした。なんだか気持ち良く眠れたな。誰かが一晩中、私の頭を優しく撫でてくれているような安心感が不思議とあったから。
ベッドから出る前に何気なく枕元の学級写真に目を遣ると、私は全身の血の気が引いていくのを感じた。
「な、なにこれ…?」
どういうわけか、伊波の顔がペンで黒く塗り潰されている。使用されたと思われる油性ペンも枕元に転がっていた。寝る前に見たときはこんな風になってなかったのに。
「天音ー?起きてるの?早く準備しちゃいなさいよ」
「は、はーい……」
廊下から聞こえるいつも通りのお母さんの声に少しホッとしながら、私はとりあえず準備を始めることにした。窓にはしっかり鍵が掛かっていた。窓……いつ閉めたんだっけ……。
廊下ですれ違う知り合いと挨拶を交わしながら、教室に向かう足取りは重い。
学級写真の件がいよいよ不気味だ。私の家族があんなことをするはずがないし、玄関や他の窓も戸締まりに問題はなかった。となると、呪いや心霊現象の類ってことに…?
「香坂ー!はよー!」
「あ、おはよ……」
声に釣られて窓の外を見ると今来たらしい伊波が手を振っていた。写真のことで罪悪感を感じていた私は控えめに挨拶を返した。
「な、なあ。昨日送ったラインのことなんだけどさ」
「……ライン?ごめん。昨日早く寝ちゃったから気付かなかったよ。まだ見てないや」
「え?既読ついて……い、いや!まだ見てないならいいや。送信取り消しておくから今の話忘れて!」
「う、うん」
何となくぎくしゃくしてしまうのは、昨日伊波が私に送ったラインというのが何気ない内容ではなかったからだろうか。
「そこで待ってて!一緒に教室行こう」
「あっ……」
伊波が私の返事を聞かずに下駄箱の方へ走っていく。人が途切れて一人きりになった廊下でスマホを取り出した。忘れてと言われたものの気になって確認しようとしたけれど、伊波からのラインは届いていないようだ。送信取り消しもされた様子がない。
「香坂さん」
「……?」
誰かに名前を呼ばれたような気がして顔を上げた。廊下には私一人しかいない。私の前……それもすぐ近くから聞こえたと思ったけど、気のせいだろうか。
周囲をぐるりと見回す。それでもやっぱり近くに人の気配はない。おかしいなと首を捻りながら元の方向を向くと、手を握られた。
「香坂さん、おはよう」
「っ!」
信じられない。突然目の前に千尋が現れて、微笑みながら私に話し掛けている。信じがたい出来事だけど、これは夢じゃない。私の手には確かに千尋の手の感触があった。
「香坂さん、おはよう」
「ち、ちひ…っ朝霧くん……お、おはよう……」
仕切り直すように繰り返された言葉にぎこちなく返事をした。男子のことも当たり前に名前で呼んでいた頃とは違うから、朝霧くんと言い直して。千尋はもう一度「おはよう」と言って笑った。
何年振りかも思い出せない程久々に千尋と言葉を交わした。昔の私なら睨んだ挙句に無視する場面だろうから少しは進歩している。
手は……いつ離してくれるんだろう。別に握らなくても引き止められた気がするけど。私は本題の前に、馬鹿な疑問を口にせずにはいられなかった。
「あ、朝霧くんさ……今、突然現れなかった?な、何て言うかこう、パッ!て魔法みたいに……」
十メートルくらい先の階段の方から歩いて来たというより、一瞬で目の前に現れたようにしか見えなかったのだけど。千尋は困ったような顔で首を傾げた。
「ご、ごめん!今の無し!忘れて!」
私は慌てて、さっきの伊波のようにごまかした。なに大真面目に馬鹿なことを言ってるんだか。久々に話した千尋に変な奴だと呆れられちゃうよ。
「……あ。そ、そうだ。私に用事があるんだよね?な、なにかな…?」
「…………」
恐る恐る聞いてみると、千尋は答えずに私の背後に視線を向けている。自然と私も後ろを見た。
「香坂ーー!悪い。お待たせー…」
すると、下駄箱で靴を履き替えた伊波が廊下に姿を見せた。この状況ってどうなんだろうと思いながらも、空いている方の手で伊波に手を振った。
「っと、もう先行っちゃったかー…」
「え?」
数メートル先で手を振る私の姿が見えないなんて……伊波はふざけているらしい。頭を掻きながら廊下の真ん中を歩いてこっちに近付いてくる。廊下の真ん中で道を塞いでいる私と確実にぶつかる位置だ。
きっと、その前に止まるはず……だけど、伊波は俯いて直進して来る。あと一歩でぶつかるという距離で、さすがに私は千尋の手を引いて一歩横にズレようとした。でも伊波の方が歩幅が大きい。肩と肩がぶつかるという瞬間に、おかしなことが起きた。
「っ!?」
もう少しのところでぶつからずにすんだ……というより、伊波が私の肩をすり抜けていったような、私の体が一瞬透明になっていたような、それは不思議な感覚だった。
後ろを振り返ると伊波は廊下の真ん中を歩き続けている。千尋も、私に手を引かれても一歩も動いていなかった。この位置関係だと千尋は肩どころか真正面から伊波とぶつかるのでは。私が見ていなかっただけで寸前で避けたのだろうか。
「魔法なんて、そんな素敵なものじゃないよ」
「朝霧く……」
千尋が俯いて寂しげに呟いた。どういう意味か聞こうと口を開き、まばたきをしたほんの僅かな間に……千尋が消える。すぐにぐるりと周囲を見回しても、千尋の姿はどこにもなかった。
「ち…ひろ…?」
さっきまで握られていた手には千尋の温もりが微かに残っている。千尋は間違いなく私の前にいたはずなのに、今度は現れたときとは逆に一瞬で消えてしまった。まるで魔法でも使ったみたいに。
私はチャイムが鳴っても、しばらく呆然と立ち尽くしていた。
「あっ、香坂!どこ行ってたんだよ?まだ先生来てないからラッキーだったな」
「う、うん」
教室に入ると伊波が話し掛けてくる。この様子だと、本当に廊下では私に気付いていなかったようだ。
席に着く前に窓側の列の一番後ろの席を確認したけれど、千尋の姿はなかった。
もうすぐ帰りのホームルームも終わるというのに千尋は一度も教室に顔を出していない。やっぱり私が怖いから?でも、朝に声を掛けに来た千尋は怯えているようには見えなかったけど……。
先生の話は上の空で考え事をしていると、隣の席の伊波が椅子をこっそり私に近付ける。
「今日もこの後、話いい?」
「いい……きゃっ!」
「うわっ!」
私が口を開いた瞬間、伊波の机が吹っ飛ばされたように前へ倒れた。
「伊波なにイラついてんだよ?物に当たるなんてお前らしくもない」
「お、俺じゃないって!机が勝手に…!」
「はあ?んなわけあるかよ!」
突然のすごい音に教室内は騒然となって、伊波は後ろの席の上倉(かみくら)くんと揉め始める。机が勝手に?いや、あれは誰かが蹴ったような倒れ方だった。私と話し中だった伊波が突然そんなことをするとは思えない。
「おーい、静かになー。偶然倒れただけだろ。伊波は机を戻しとけ。ホームルームを続けるぞー」
「っ、きゃあ!」
今度は伊波の後ろの席、上倉くんの机が前から蹴られたように倒れて、近くの女子が悲鳴を上げた。
「お前どういうつもりだよ!」
「今の自分でやったんだろ!?俺の机蹴っ飛ばしたのもお前なんじゃねーの?」
「ふざけんな!」
「二人共落ち着け…っ」
伊波と上倉くんは取っ組み合いの喧嘩を始める。それを周りの男子や先生が止めに入ろうとして更に揉みくちゃになって。私は近くの女子と一緒に教室の前方に避難した。どうして、急にこんなことに……。
騒がしい教室内でうろたえていると、すぐ横のドアが静かに閉められた……ような気がした。
「今誰か出て…?……千尋が?」
根拠はない。でも、朝起きたときから始まっていた不可解な出来事の全てが線で繋がったように思えて、私は教室を飛び出した。
他のクラスもホームルーム中で誰も歩いていない廊下を、目に見えない千尋を追い掛けて走る。どこに向かえばいいか迷うことはなかった。私に道を示すようにドアや窓を叩く音がして、廊下に置いてある物が次々と倒れていく。それらに従って進むと昨日伊波と話をした、あの空き教室のドアが開いた。
続く廊下の先では物音が止んでいることを確認し、教室に入った。すると、私の後ろでドアがひとりでに閉まる。私以外の姿はない。机と椅子が置いてあるだけの殺風景な教室。でもきっと、千尋はここにいる。
「あ、朝霧くんどこにいるの…?」
千尋を呼びながら教室の奥に進む。反応が返ってこないと密室の教室内でも探しようがない。仕方なく、唯一身を隠せそうなロッカーに近付いていく。昨日よりずっと緊張しながら、思い切ってロッカーを開けた。
「いない……」
ロッカーの中には体育館シューズの袋が転がっているだけだ。当たり前か。普通に隠れているのなら私が入ってすぐに閉まったドアの説明がつかない。このままでは困るけれど、昨日みたいに千尋の泣き顔を見なくて済んだことにホッとする思いもあって、私は小さく息を吐いた。
「僕のこと追い掛けてくれたんだね」
「っ!」
後ろから肩に手を置かれたのと同時に耳元で囁かれ、再び緊張が走る。慌てて振り返るも、既に千尋の姿はなかった。
朝から起こっている不可解な出来事の数々を常識に当てはめて考えるのは難しい。それでもこれは夢や幻なんかじゃなくて、姿が見えなくても千尋は教室内にいるのだと確信した。私は不自然に引いた状態で置いてある誰も座ってない椅子に向かって話し掛ける。
「さっき教室で伊波と上倉くんの机を蹴り倒したのって朝霧くん?」
「そうだよ」
私の問いかけに、椅子に座っていたらしい千尋が姿を見せて答える。予想通りでも瞬く間に現れるところを実際目の当たりにしてしまうと驚きの方が勝った。
反射的に後ずさると、シュルという小さな衣擦れの音が聞こえた。
「あ…っ」
途端に私の目は千尋を見失う。座っていた椅子はその場に残して千尋の体だけがものの一瞬で消えてしまった。
椅子の上の何もない空間にそろそろと手を伸ばす。千尋が今も座っているとしたら当然上半身に触れるであろう高さで、手は虚しく空を切った。
「も、もしかして昨日の夜……私の家に来た?」
「香坂さんってば、写真の中の伊波を恋しそうに見つめてるんだもん。妬けたよ」
再び椅子に向かって話し掛ければ、行き塲のなかった私の手を握って千尋が姿を見せた。千尋はもう片方の手の人差し指にリボンをくるくる巻き付けていじくっている。
私の胸元から制服のリボンがなくなっていることにそこでようやく気付いた。さっき解かれたんだ。
「リボン返してよ!」
「おっと」
千尋の手を振り解くとリボンごと千尋が私の前から消えた。それでも近くにいることは確かだから構わず話を続ける。
「学級写真の伊波の顔にあんな酷いことしたのも朝霧くんなの?」
「うん。伊波から届いていたラインを消したのも、窓の施錠をしたのも、香坂さんに布団を掛けてあげたのだって僕だよ。あぁ……香坂さんの寝顔素敵だったなぁ……」
千尋が私の手を握り、急に現れてもいい加減驚かなくなっていた。自身の肩を抱きながら、昨晩家に侵入したことをうっとりとしたような表情で語る千尋に初めて少し嫌悪感を抱いた。
「香坂さん、怒ってるんだね。ふふっ、嬉しいなぁ。幸せだなぁ。この顔が見たかったんだ」
「っ、私への復讐なら私だけにしてよ!無関係な伊波の机を倒したり、こそこそ嫌がらせしないで!」
満面の笑みを浮かべた千尋が私の両頬を包んで顔を覗き込んだ。千尋の瞳に映る私は、怒りで顔を歪ませていた。