自分の母親が、未だかつて見せたこともないような怒りを携えてこちらに向かってくるのに気付き、悟天は慌ててトランクスから唇を離した。
口の端から伝った唾液をぬぐいながら皆の方を見ると、悟飯とベジータが自分の娘の両目を手で覆っていた。やはり父親としては、愛娘にこのような前代未聞の光景を見せるわけにはいかなかったのだろう。二人の親心が伝わってくる行動を見て、うっかり悟天は笑ってしまった。

「笑い事じゃねえ!」

チチが悟天の耳を思いきり引っ張った。

「いってぇ!取れる!取れる!」

あまりの痛みに大騒ぎしていると、そこにベジータも近付いてきた。トランクスが解放されたことで、娘を目隠しする必要がなくなったと判断したようだ。ブラをブルマに預けて、悟天のもとへと歩いてくる。もともと怒っているような顔の人ではあったが、今の表情はそんなレベルではない。まかり間違えば悟天を半殺しにしかねないくらいの怒気と殺気に包まれていた。
じたばたしてもどうしようもないと思い、悟天は黙ってその場に直立した。両脇にチチとベジータが陣取り、精神的な圧力をかけてくる。二人揃って、目を血走らせてにらみつけてきた。悟天はこの状況から逃れられないことを悟り、観念した。
そこからが二人の独壇場だった。
親の目の前で人様の息子さんに手を出すとは何事か、自分はそのように育てた覚えはない、金髪にならなくなったと思ったがやはりお前は不良だったのかと、チチから激しく叱り飛ばされた。ベジータもそれに追従し、すぐに表に出ろ、俺と闘え、生きて帰れると思うなよと、物騒な罵声を浴びせてきた。
二人がそれぞれ言いたいことを同時に大声でわめき立ててくるので、悟天は何を言われているのかだんだん聞き取れなくなってきた。自分が責められていることは理解できるが、怒鳴り声が重なって聞こえてくるため、いまいち内容が把握できない。火に油を注ぐことになると思ったが、そっと耳をふさごうとした。


「ちょっと待って。二人とも、とりあえず落ち着いてください」


悟天を取り囲むチチとベジータの間に割って入ってきたのは、兄の悟飯だった。
チチはその顔を見るなり目に涙を浮かべ、そのまま泣き崩れてしまった。悟飯にすがりついて何かを訴えているようだが、しゃくり上げる声にかき消され、それは言葉になっていなかった。

「大丈夫。今から、悟天に言って聞かせますから。二人はブラちゃんとパンのところに戻ってあげてください」

そう言いながら悟飯がこちらを見た。穏やかな口調とは裏腹に、その目は全く笑っていなかった。悟天は青ざめた。ある程度の予想はできていたことだが、今回の件で一番憤っているのは悟飯であるに違いない。
悟飯が最も嫌うことは、「親を悲しませること」と「周囲に迷惑をかけること」だ。今の悟天はそのどちらをも、いとも簡単にやってのけた。そのような弟に対し、悟飯が憤慨しないはずがなかった。
まして今日は、自分たちは「客」である。相手の厚意で特別に招いてもらった側なのだ。しかも本日の主役が招きたかったのはパンであり、悟天はおまけで呼ばれたようなものだ。そのような「おまけ」が、一年に一度しかない祝福の場をぶち壊したあげくに、親を泣かせた。この一連の流れが、兄の怒りを一気に沸点まで導いたのだ。
もともと悟飯は怒りの沸点が高い。そのため、めったなことでは怒らない。しかし沸点が高いということは、怒りに到達した場合の爆発力がすさまじいことを意味する。悟天は今から起こり得る惨劇を想像し、怖じけづいた。
危惧しているのはそれだけではない。悟飯はその職業柄、現実と理屈を塗り固めて正論に仕立てあげることを得意とする。そのため、悟天が今回しでかしたことがたとえ確固たる信念に基づいた行動だったとしても、悟飯の振りかざす一般論に負けてしまう可能性があった。しかもこちらは、そのような行動をとった理由を隠し通さなければならない。口論をするには圧倒的に不利な状況だった。
悟飯が、部屋の隅に行くよう促した。悟天はおとなしくそれに従ったが、これから始まる説教をおとなしく聞くつもりは全くなかった。





「どうしてあんなことをしたんだ」

周囲に配慮したような静かな声で悟飯が言った。悟天を隅に追いやり、その前に仁王立ちで立ちはだかっている。まるで、皆の視線から悟天を隔離しているかのようだった。

「あ、別に気にしなくていいよ」
「は?」
「とりあえず、理由は内緒」
「内緒!?」

悟天から返ってきた予想外の返事に、悟飯は驚きの声を上げた。
誕生パーティーの雰囲気をぶち壊したことは、確かに許しがたいことだ。しかし人前で親友に対してあのようなことをしたのだから、よっぽどの理由があったに違いないと悟飯は考えていた。
それが「酔っ払っていたから(未成年ではあるが)」や「トランクスのことが好きだから(男同士ではあるが)」等の返答であれば、まだ酌量の余地はあった。その可能性を踏まえた上で、わざわざ部屋の隅に連れ出し、悟天に弁解の機会を与えたのである。もしそのような回答をされたなら、悟飯は悟天をかばうつもりでいた。
それなのに当の悟天は、適当なことを言って問題をはぐらかそうとしている。悟飯は沸き上がる怒りを必死で抑えた。

「…お前は、人を困らせて楽しいのか?」
「いやー、別に楽しいわけじゃないけど」

そう言いながらも、悟天の表情は実に晴れやかだった。自分のしたことを反省している様子は微塵も見られず、むしろ達成感に満ちあふれている。悟飯はそれがどうしようもなく気に入らなかった。

「だったらどうして、人の嫌がることをするんだ!」

握りこぶしを震わせながら、そして小声を意識しながら、悟飯は声を荒らげた。それを聞いた悟天は真面目な表情になった。

「人の嫌がること?」
「そうだ!」
「…嫌がってたかな?」
「どう考えても、トランクスは嫌がってたぞ!」

その途端、悟天が再び笑顔になった。これは果たしてどういった意味合いの笑顔なのか。悟飯には、そこで笑顔になる理由が全く理解できなかった。


「だよね!やっぱりトランクスくん嫌がってたよね!人前で男に無理矢理チューされたら、絶対に嫌がると思ったんだ!」


開いた口がふさがらないとはこのことだった。
この男は何をふざけているのだろう。何故喜んでいるのだろう。相手が嫌がることを想定した上での行動だったとでも言うつもりなのか。あのような行動をとった理由とは、単に嫌がらせがしたかったからなのだろうか。小さい頃からずっと一緒にいる幼なじみに嫌がらせをするために、パーティーを台なしにしてまであんなことをしたというのか。
一瞬で考えを巡らせた悟飯は、悟天の胸倉をつかんだ。その目に宿る怒りの炎は、悟飯の中に備わっている「優しさ」を燃やし尽くして灰にした。すさまじい勢いで気が上昇していく。皆がそれに気付き、慌てふためいているのにもお構いなしだった。
悟天はようやく後悔した。「言いくるめられるわけにはいかない」との思いがあったため、質問にはできるだけ真意が伝わらないような方向で適当に返答していた。しかしそれは失敗だった。
本来ならば、悟飯の説教から逃れるためには、たとえ嘘でも「トランクスくんが好きだから」と回答しておくべきだったのだ。そう言えばきっと悟飯は納得したはずだ。それなのに悟天は、この期に及んで「正直者」の本領を発揮してしまった。結果が今の危機的状況である。
悟天は焦った。このままでは、ぶち切れた兄が自分もろとも世界を滅ぼしかねない。


「違うんだよ!僕は別にトランクスくんを困らせようと思ったわけじゃない!トランクスくんの悩みを消してあげようと思っただけなんだ!」


必死の弁解は、どうやら悟飯の耳に届いたらしい。彼の理性はまだ灰になってはいなかったのだ。胸倉をつかんでいた手を離すと、気を落ち着かせた。そして悟天を見ながら、呆れたように言った。

「あのなぁ悟天…。お前のしたことは悩みを消すどころか、トランクスを余計に悩ませるだけなんだぞ」

悟天は目を丸くした。
やはり兄は頭がいい。そして鋭い。必死で口走った弁解の言葉から、悟天がひた隠しにしている真意の断片を読み取られるとは思ってもみなかった。





悟天が企てた作戦の真相は、あの「携帯電話紛失騒動」が発端だった。
あの時の悟天は、トランクスの抱えている悩み、すなわち「大人のトランクスに会いたくとも会えない」という問題を解決することに奮闘していた。頭の中はそのことでいっぱいだった。
そんな折、悟天は携帯電話を紛失した。すると、つい先程まで頭の中を占領していた問題はどこかへ吹き飛んでしまった。代わって居座った言葉が、「ケータイなかったら死んじゃう」だったのだ。
そこで悟天は気付いた。自分は「携帯電話紛失」という新たなアクシデントに見舞われたことで、一時的にではあるが、直前に抱えていた悩みがどこかに飛ばされた。つまり、人はたとえ何かで悩んでいても、そこに新たな悩み事が生じた時、頭の中は最新の悩みで上書きされるということが言えるのだ。
それは恐らく自分だけではなく、誰でもそうなのではないかと悟天は考えた。携帯電話ショップ店員の女の子の彼氏にしてもそうである。その彼は、応援しているプロスポーツチームが連敗街道を進んでいることをたいそう気に病んでいた。そこで仮に、彼の愛する彼女が突然事故に巻き込まれ、重傷を負ったとする。きっと彼の頭の中からは、連敗の悲しみなど飛んでいってしまうに違いない。
そうだとしたらそれはトランクスにも当てはまる。今現在トランクスの心に巣くっている「あの人に会いたい」という悩みは、あの人が来ない限り解決できないことが判明した。
そうなれば、悩み事を消すために悟天ができることはただひとつ。
「トランクスに新たな悩みを生じさせる」ということだけだ。


その結論に至ったものの、トランクスに新たな悩みを生じさせることはなかなか難しいものがあった。
悟天と同じように携帯電話を紛失したとしても、トランクスはさほど動揺しないだろう。何故なら全てのデータをバックアップしておくようしつけられているからだ。そのうえ彼はもともと裕福な家庭に育っている。物や金銭に不自由しない以上、「何かを紛失した」というアクシデントに動じるはずがなかった。
対物的な面で悩むことがないのであれば、対人的なことで悩ませるしかない。
悟天は、わざとトランクスを避けて彼を困惑させるという作戦や、その逆に、気持ち悪がられるほど彼に付きまとうという作戦など、いろいろな案を紙に書き出した。ところがどれもこれも中途半端に欠点があった。
悟天がトランクスを避けた場合、彼は「避けられている」ということ自体に気付かない可能性がある。なんといっても大会社の跡取り息子なのだ。これからますます忙しくなる立場に置かれているトランクスは、避けても避けずともどっちみち悟天と会う回数がこれから減っていくだろう。
悟天がトランクスに付きまとう場合、一見するとそれは彼の悩み事になりそうだが、実はこちら側に問題がある。結局のところ悟天はいつも何らかの用事があり、暇ではない毎日を過ごしている。トランクスに付きまとうだけの時間が取れないのだ。

もっとうまい方法はないものか。
考えた末に悟天はひらめいた。付きまとう時間を必要とせず、尚且つトランクスに精神的なダメージを与え、悩み事に昇華させられる行動。

それが「男が男にキスをする」というものだった。

それもただの男ではない。
幼なじみで、親友の男なのだ。



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